リバベンに向けて思うことと、思い出

毎年5月の3週目にやってくる恒例行事リバベン(日本リバーベンチャー選手権大会)ですが、私のラフティングのルーツといってもいい大会です。近年はコロナ禍で延期や中止があったせいでクラウドファンディングなどにより資金調達をしなければならないほど追い込まれたりと危機に瀕しています。

しかし、今年もオフィシャルは集まり何事もなければこのまま開催できるというところまでこぎ着けているようです。

今回は川の技術ではなく個人的にリバベンに対して思うところや回想録を書いていこうかと思います。

初めてのリバベン

私が初めてリバベンに出場したのは36回大会です。大学2年の頃でした。大学1年の後半に探検部に出会い、そこから選手不足や体力がありそうということで出場してみないかということになり、あれよあれよという間に話が進み出ることになりました。

1年生で天竜川WWFや長良川WWFに出て2年生でリバベンに出るというのが通説だったにもかかわらずそこをすっ飛ばしてリバベンだったので正直先輩たちはかなり心配していました。

公式練習からフル参加で練習を積みましたが、1年分の遅れというものは大きいもので上達する前に本番がやってきてしまいました。新2年生3人と新3年生1人というチームは当然ふるわず中級も下から数えた方が早いような結果で終わってしまいました。

しかし、そこでラフティングの楽しさや漕ぐ事の楽しさ・難しさを知ることができ、そこからのパドリング人生が始まりました。

2回目のリバベン

3年生で出場したリバベンも結果は残せませんでした。私のいた大学は当時川人口よりも山人口やその他の活動の人口の方が多く、R4を組んで1年練習しようなんて人は私しかいませんでした。そのためラフティングに興味がある後輩を誘っては半ば無理やりレースに出場していました。そんなチームで勝てるはずもなく最後のリバベンも中級でビリ争いでした。

そんな環境の中一人で練習をしていたのでハングリー精神に火がつきテイケイのセレクションを受けてみたり一人でもできるカヤックに手を出してみたり他大の先輩と繋がったりと幅は広がったと思います。

38回オフィシャルとしてのリバベン

なんの結果も残すことができず学生レーサーとしてのリバベンは終わりました。私に1番最初にラフティングを教えてくれた先輩の教えで「4年生になったら関東圏の学生はオフィシャルをやる。」を守り私もオフィシャルをやりました。

大会まではほとんど仕事をしない「使えない奴」でしたが公式練習や準備・本番では誰よりも体を張って肉体労働をした自信はあります。

そんな中で今でも印象に残っているのはスラロームです。完全に裏話ですがAKIKOでスラローム中落艇からの復帰不可と2艇連続フリップをくらい用意していたレスキュー艇を2艇とも出してしまいレスキューラインが諏訪峡手前まで下がってしまいました。1艇目はレスキューが終わりラインに戻っていましたが想定していた場所よりも下がっていて2艇目は回送中で復帰まで15分以上はかかるといった状態でした。そのまま競技を続けて万が一にも次のチームがフリップないしレスキュー艇を使う事態になると完全に競技ストップもしくは程度によっては競技中止という状況でした。ここで競技を30分止めてレスキュー艇の完全復帰による安全対策を取るか、レスキュー艇の復帰を待ちながら競技を続けて何かあったら即競技中止にするかの選択を迫られました。安全対策としてゴールラインでレスキュー艇に指示が出せるよう陸にいましたがあの時のレスキューチームの緊張感は半端じゃなかったです。レスキュー艇も御岳の柴田大吾さん(元テイケイ)と37回委員長の元吉さんがリーダーを務めてくれていて他のクルーも十分信用に値するチーム構成でしたがどちらかというと「競技中止が妥当」という空気が漂っていました。そこで安対として決断を下すのは精神的にかなり追い詰められました。

ここまでは大会に出ていれば知っている人もいるかもしれませんがさらに2日目のダウンリバーでも事件は起きました。1日目落艇からの復帰不可をしたチームがモンキーコーナ出口でフリップしボートだけ流してよこしたのです。各スポッターからボートが流れているという報告が入るものの人の情報が一切入らないのです。鉄橋に張り付いたりJA前の橋脚跡に巻き込まれてはひとたまりもありません。ボートが流れたのはしょうがないし下でなんとかするから人がどこに行ったか(流れているのか他のチームに拾われたのか自力で上がったのか)探せと無線でキレた記憶があります。結局3人は自力で丘に上がり1人はコマーシャルのボートに拾われていました。みなかみ温泉街は渓谷で無線が通りにくいので上流区間・下流区間ともに中継を挟まなければ交信できないのでかなり無線が混線して15分ほど状況が掴めませんでした。

オフィシャルはどんな時も安全第一で動いています。自分たちの身を守るという意味もありますが、先輩たちから引き継いだ「リバベン」を自分たちの代で終わらせない、何より自分たちの愛した川で犠牲者を出さないという意味合いが強いです。

リバベンのこれから

通常の大会は実行委員会があり毎年誰かしら同じ人がいます。御岳カップであればプランナーの大吾さんがいますし長良川wwfであればODSSの社長やガイドリーダーなどが過去の大会を知っています。そういう人がいれば「去年は〇〇ができなかったから今年は改善していこう」ということができます。

リバベンは毎年実行委員会の総入れ替えがあるのでそうもいきません。ゲートシステムや計測方法など基本的なことから協賛企業の開拓まで全て担当が変わります。そんな中でよくやっている大会だとは思いますが、リバベンをここからさらに大きく発展させるためにはゲートセットや会場設営などのハード面はOBを雇ってでも外注し、オフィシャルは運営などのソフト面に集中していく必要があるのかと思います。実際ゲート設営練習だけで何日も使いますし、本番前もゲート設営や会場設営で丸2日ほど使います。そこに貴重なオフィシャルの手をさいていては細かいところまで手が回りません。我々の代でもナイトステージでリバーフェイスの選手との対談をしてその後にPV上映という流れでしたが、PV担当が忙しすぎて機材チェックができておらず上手く投影できず手こずっていました。その時対談でインタビュアーを担当してくれていたのが一橋の漫才サークルにも入っていたおしゃべりマシーン知久君だったのでうまく繋いで時間を稼いでくれたおかげでことなきを得ました(知久君は大会前日から手伝ってくれていて本当に感謝しています)。

もちろんPV以外にも集計や会場の切り替え、次の日の人の配置などオフィシャルは多忙です。外注できるものは外注していかなければ次のステップには進めないのではないかと個人的には思います。

コロナ禍からのリバベン

ここ数年はコロナ禍もあり思うように大会ができない年が続いています。ここにきて運営として1番きついのは「できるOBとの繋がりが絶たれてしまう。」ということだと思います。特にレスキュー艇に乗せる要員は競技の難易度にもよりますが経験者でなければキツイです。私も卒業後レスキュー艇要員をやりましたが、ラフティングをやっていた4年生を預けられても正直レスキュアーとしてのレベルはお客さんと変わりません。判断も遅ければレスキューの基本も知りませんのでただ前漕ぎしてくれるだけの人です。

そこで使えるのがOBとのパイプです。リバベンOBで卒業後も一線で漕いでいる人はいます。38回でサポートしてくれた元吉さんも大吾さんもまだまだ現役ですし経験も豊富です。今なおレスキュー艇のリーダーやスポットレスキューをさせたらそこら辺の学生ラフターでは到底相手にならないほどの経験値があります。またTeamHORUも元々はオフィシャルOBが発足させたチームでレスキューや場数では他のチームよりも信頼できます。

リバベンはOBとのつながりでも支えられていました。しかし、近年のコロナ禍で集まって飲んだりできないことによりこの繋がりが少し希薄になってきたように感じます。全国にいる「リバベン大好きOB」を集めてレスキュー艇をやってもらったり運営を手伝ってもらうという伝統を復活させることもコロナ禍からの復活のひとつかと思います。私がオフィシャルをやった時も現役で被っていないほど上のオフィシャルOBが「今年人数少なくて大変そうだな!」と差し入れを持って登場したり、大吾さんに呼ばれて何年かぶりにリバベンに携わりますというOBさんまで多くのOBさんの支援をいただきました。

これからの自分

自分としてはまだまだ現役でいたいと思いますし機会があればリバベンには出たいと思います。ダッキーやR4などどんな形であれ出られるなら毎年関わっていくスタンスは貫きたいと思います。

しかし、同時にリバベンオフィシャル経験者で「リバベン大好きおじさん」です。もしオフィシャルやOB仲間から「人がいないから手伝って」と言われれば行きますし手を貸します。しかし、声がかからない限りは出場か欠場かの選択しかありません。

とりあえず今年はカテゴリーも成立していないダッキーで出ると決めてしまったので頑張りたいと思います。

近年ダッキーは下火になっていますがラフトよりトップスピードが速い上にバランスとコントロールが難しいという点では競技性において上位互換のような存在です。R4と同時にダッキーももっと盛り上がっていけば嬉しいです!

コメント